日本のタレント事務所の巨人、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長、本名、喜多川 擴(きたがわ ひろむ)さんが、2019年7月9日午後4時47分、亡くなったことがわかりました。87歳でした。
2019年6月18日の午後東京渋谷区の自宅で倒れ緊急搬送されていました。
解離性脳動脈瘤破裂による、くも膜下出血でした。
芸能関係者の話によると病院には、藤島ジュリー景子副社長がおり続々とタレントが挨拶に駆けつけていたといいます。
同年7月12日には、事務所、稽古場で同社従業員やタレントにて家族葬が行われました。
2019年9月4日には、東京ドームにてお別れ会が行われ、芸能界史上最多となる9万1500人(主催者発表)が参列しました。
所属タレントを家族のように愛した
ジャニー喜多川社長は、2019年6月2日に、ジャニーズ事務所所属タレントの公演に顔を出していました。
ネット上では18日以降、様々な死亡説も囁かれていましたが、奇跡的に回復、集中治療室から一般病棟に移ることができタレントやジャニーズJr.などが面会ができたといいます。
何度か危ない場面があったが、Jr.の声がけや体をさすると持ち直したといいます。
7月12日、同事務所のタレントとJr.で「家族葬」が行われました。
性加害問題でジャニーズは、消滅
ジャニー喜多川社長の死後、性加害問題が再燃しました。
メディア業界で絶大なチカラを誇ったジャニーズ事務所は、スポンサーの撤退を受け一気に消滅へと向かいました。
NHKを含めたメディア各社は、ジャニー喜多川社長の性加害問題の報道姿勢やテレビ局の方針について検証番組を行いましたが、自分達の身の潔白を自ら訴える冷めたモノとなりました。
日本のジャーナリズムが大きく歪んでいる事態を明るみにする事件となりました。
アメリカ西海岸のエンターテイメントを色濃く受け継いだ初代ジャニーズの誕生
ジャニー喜多川社長の生涯を振り返ることはジャニーズの歴史、日本のエンターテイメントの歴史を振り返ることになります。
ジャニー喜多川社長(以下、ジャニーさん)は、幼少期、アメリカ合衆国のロサンゼルスで過ごしアメリカ西海岸のエンターテイメントに触れていました。
第二次世界大戦で日本が敗戦しサンフランシスコ条約で日本の主権が回復した1952年にはアメリカ大使館の通訳として勤務していたといいます。
そんな中、近所の少年たちを集め野球を教えていると雨が続き練習できない時がありました。
ジャニーさんは野球少年たちを誘い映画「ウエストサイドストーリー」を鑑賞、野球少年たちはこれに感動しダンスの練習を始めたといいます。
初代「ジャニーズ」の誕生でした。
テレビという新たなエンターテイメントの急進と共に時代を築いた
戦後のエンターテイメントは、ラジオからテレビという新しいエンターテイメントの場が膨れ上がっていました。
映画や舞台が主流だったエンターテイメントがエレビという新しいメディアによって各家庭に届けられるようになったことで、目に入る機会は飛躍的に向上していきました。
「フォリーブス」や「郷ひろみ」「たのきんトリオ」や「しぶがき隊」「少年隊」へとヒットを飛ばしていきます。
中でも1980年にデビューした「光GENJI」は若さを前面に押し出したフレッシュでアクロバティックなアイドルとして一世風靡(いっせいふうび)することとなります。
ジャニーさんのタレント育成手腕で「男性版宝塚」とも言われる「ジャニーズJr.」が花開きました。
1990年代には「SUMAP」2000年代には「TOKIO」「V6」「kinki kids」「嵐」を次々と世に送り出しました。
ファミリーレストランをこよなく愛し所属タレントと訪れる事もあったそうです。
国分太一さんの話では、いつも決まって「ビーフストロガノフ」をたのむのだそう。
発音が良すぎて店員さんはいつも聞き返す、そんなやりとりがお決まりなのだとか。
訃報翌日のテレビメディアでは、NHKを除き喪服姿のタレントたちが目立ちました。
業界における影響力の大きさを誰もが感じました。
心よりお悔やみ申し上げます。